1871年(明治4)〜1945年(昭和20)旧大山町和田出身。
1907年(明治40)陸軍測量部に雇われ、人跡未踏といわれた剱岳に登頂し測量三角点を設置した。彼の登頂を記念して、登山ルートの谷を「長次郎谷」と名付けられた。黒部峡谷全域も踏破し、名ガイドとして尊敬された。

 

 1970年(明治40)7月12日、測量隊の案内人として、標高2999メートルの剱岳に初登頂した時の様子を、作家新田次郎は「剱岳・点の記」に次のように記した。

 

 「長次郎は、なんにもいわず、岩壁に取りついた。手はすいと伸びた、足もよく動いて、ちょっとした岩の出っ張りや窪みにぴたりと吸いついた。長次郎はなんのためらいもなく、岩場を攀じ登っていった。動きがリズミカルになると速度を増した。−岩壁を攀じ登ったところは、目もくらむばかり明るい岩尾根だった。太陽が頭上に輝いていた。すぐ先に雪田があり、その向うに、剱岳の頂上の丸みが見えた。雪田から頂上までは岩壁だったが、今度は、はだしになるほどのこともないように見える傾斜面だった。−頂上は意外に広々とした岩石の丘だった。大小無数の岩石が重なり合いながら、絶頂に向ってゆるい傾斜を作っていた。−そこは日本中の山が一望のもとに見えるほど高いところに思われた。遮るものはなに一つとして無かった。どの方向もすばらしい景観にあふれ、区々としては目をひくものはなく、弾き返すような勢いで全体として迫っていた。なにか壮大な景観に圧倒されて眩暈がしそうに思われた。」剱岳は、針の山、地獄の山として恐れられ多くのガイドは近づこうとはしなかった。しかし、地図を作る基点としての三角点をこの頂上に是が否でも設けなければならないので、長次郎にガイドの白羽の矢が立ったのである。この登頂の折、山頂に錫杖の頭と槍の穂先を発見し、初登頂の夢が消えたが、何百年、あるいは千年も前に修験者がすでに剱岳を極めていた事実がわかった。

 

 長次郎は耕地の乏しい山村に生まれ、子供の時から山仕事に従事した。時には伐木、時には渓谷の流木流しに、時には砂防工事に雇われた。・・・彼は若い時から大力で、百貫(約375キログラム)の荷物を背負って、こともなげに歩いたそうだが、普段はそんなことをおくびにも出さなかった。

 

 剣阻な山を前にしても、悠揚迫らず、その鍛えた身体で上手に地物を利用して手際よくこなしてゆく、長次郎の山登りの手際には登山家のすべてが舌を巻いて驚いた。激流でも、岩場でも、長次郎の前には自然と道が開かれているように見えた。必要以上の努力を払わず、巧妙に歩き、柔軟な身体で悪い岩場に吸いつくように、両手を上へ押し上げながらかぶざった岩場に抱きついて行く様子は、まるでヤモリのようであったという。決して無理をしないで、見込のないところを、押し進むようなことはせず、人の脇へからんだり、登ったり、それを避けるようなことはせず、だれもが安心して彼の行くところへついて行けた。谷渡りの技術も抜群であり、二間(約1.8メートル)もある長い桿で和田川を岩から岩ヘツバメのように渡り、他人を道づれに、その人を助けて川を上下できたのは長次郎のみであった。

 

 長次郎は、名ガイドとしての天性の登山脚力を備え(山アシ)、雲、霧、風、雷、雪による天候の観察が的確であった。友人との仲は睦まじく、よく仲間の面倒を見た。芦峅の人々とも友達となった。棟梁の徳を備え、他のガイドや人夫に対しては親切でいたわりの心を持ってまじわった。大山のガイドグループが出来たのも長次郎の人望による自然な現れであった。食物は大切にし、物を捨てなかった。お客に対しても親切であったが、服装での判断、装備、歩き方の観察(この時は、目を縮めるようにしたという)は鋭かった。

 

 1909年(明治42)7月31日、石崎光遥や河合良成の一行四人を案内し、再度剱岳を極め、近代スポーツ登山の道を拓いた。
 長次郎が山で一番恐かったことは、仙人山に三角点標石を背負い、頂上に達したとき、突然熊と出合い、「もう駄目だ」と思ったとき、また、剱岳の小窓で絶壁を下ったところで、岩ツバメの大群に襲われ、「最後か」と感じた時だという。

 

 長次郎は山室村出身(現富山市)の有名な登山家田部重治や木暮理太郎とも懇意にしたが、やがて終生の山の師となり、友となり、雇い主ともなった冠松次郎と出会った。二人は黒部の谷の魅力にとりつかれ、その後10年にわたって影と形のような名コンビとして、黒部の神秘をつぎつぎと探っていった。

 

 長次郎、黒部、冠これほど息のあったトリオはめったにないといわれた。詩人室生犀星は冠松次郎におくる詩を次のようにうたった。 「剱岳、冠岳、ウジ長(宇治長次郎)、熊のアシアト、雪渓、前剣、粉ダイアと星、漂った藍の山々、冠松 ヤホーヤホー。」
 やがて、長次郎は剱岳より、むしろ黒部のガイドが有名になったくらいである。冠松次郎は長次郎のプロフィルを次のように書いている。
「とにかく愉快な山の仲間だった。」「あまり無駄口をたたかない。彼のはしゃぎ始めるのはいよいよ自然が雄大となり、峻険が踵に接するような時だ。こういう時の彼のくせは、鼻歌を唄うことだ。−大事なところを行くときは、黙々として皆の後からついてくるが、悪場にかかる頃となると何時の間にか先頭にきていた。(冠松次郎山とともだち)」

 長次郎の晩年は、太平洋戦争のさなかであった。発電工事の測量や小屋がけに働きに出たり、柿、干魚などの行商をして暮した。子供達に親しまれ、長次郎の来るのを待たれた。かつての山案内人の名声も戦争激化で登山どころではなく、人々の記憶からうすれた。  長次郎は、一介の村の老人にもどっていた。

 昭和20年終戦、長次郎は病の床でその知らせを聞いた。それから2か月後の、10月30日、眠るようにこの世を去った。